マッテオ・モッテルリーニさんの著書、「経済は感情で動く」を読んだ。
本書は行動経済学の本である。
それって何?と思った人、もしくは行動経済学に興味のある人、以下の問題に答えてみてほしい。
問3
いまはクリスマスセールがたけなわ。あなたは前から目をつけていた携帯電話を買いに行く。行ってみたら値段は九〇〇〇円だった。代金を払おうとしていると、歩いて十分の「あっちの店では同じ製品を八〇〇〇円で売ってるよ」と友達に耳打ちされる。
さてどうしますか? 安いほうの店に駆けつけますか?
問4
問3と設定は同じだが、今度はテレビを買いたくなったとする。ある店では一九万九〇〇〇円の値札がついていた。例の友達が駆けつけて、歩いて十分の「あっちの店では同じ製品を十九万八〇〇〇円で売ってるよ」とささやく。
さてどうしますか? 安いほうの店に走りますか?
ほとんどの人は、問3には「イエス」と答え、問4には「ノー」と答える。
しかし、よくよく考えてほしい。
「十分歩くことで一〇〇〇円安くなる」という状況は変わらないのだ。
経済学の考えるところの超合理的な経済人、ホモ・エコノミクスにとって、一〇〇〇円はいつだって一〇〇〇円のはずだ。
しかし、現実には携帯電話が一〇〇〇円安いのと、テレビが一〇〇〇円安いのとでは、私たちの行動は異なる。
要するに、私たちの頭にあるお金は、きっちり決まった絶対的で抽象的なものではないのだ。私たちはお金には相対的な価値を付与し、経験や感情によって色づけをする。
もう一つ見てみよう。
あなたがある有名なスポーツ用品メーカーの経営を任されたとする。その会社は「インテリジェント」な走りを約束する革新的な靴の開発に、すでに一〇億円を投資している。
(中略)
このプロジェクトが八〇%達成された段階で、同じ規模のほかの会社が同じ特徴を備えた靴をすでに販売していることがわかった。その靴はプロジェクトを進めている靴より機能的だし値段も安い。
さて質問。あなたはプロジェクト達成に必要な残りの二〇%を投資しますか?
こう質問された人の85%が「イエス」と答えたそうだ。
だが良く考えてほしい。
いくら今までに投資した10億円がもったいないとはいえ、このまま投資を続けて完成させたところでライバル会社と競争できるとは思えない。
にもかかわらず投資を続けるのは、さらなる無駄遣いになるだけではないだろうか。
「すでに多くを投資してしまったから」という理由だけで不利な投資をさらに続けるこのような状態を、「サンクコストの過大視」という。
さて、サンクコストの罠に気付いたあなたは、次の質問にどう答えるだろう。
問15
たとえばスキー旅行の予約をした。あなたはばかにならない金額をすでに払い込んでいる。しかし当日は寒くて風も強く、雪が降っていた。家を一歩も出たくないのに、もうお金は払ってしまっている。
さてどうしますか?
1 スキーに行きますか。
2 それとも温かい家で過ごしますか。
経済行動を行うとき、私たちは様々な罠に遭遇する。
本書を読むと、合理的だと思っていた私たちの行動がいかに「人間的」であったかを知り、感動することだろう。
非常に面白い一冊だった。
以下、自分用のメモ
●選択肢の数が増えると、判断を先延ばしにする傾向が強まる(判断するときの葛藤が深まると、しまいに判断力が衰える)
●既に示されている二つの選択肢のなかの、一方にきわめて似た選択肢が追加されると、「妨害効果」が生じて、全く異なるほうが選ばれる比率が高まる(新たに加わった選択肢が他の二つのうちの一方よりはるかに劣っている場合、逆にこれが「餌」になる)
●サービスの範囲が広がると、選択のための順序の組み換えを余儀なくされる
●選択肢が増えると真ん中を選びたくなる
●4480円の靴と、5000円なのに4480円になっている靴、どちらを買うか(アンカリング効果)
●会議で最初の発言者の意見に引っ張られ、自分も同じことを考えていた気分になり、ユニークな発想が出てこない(アンカリング効果)
●「この数字って結局何が言いたいわけ?」と考えること(4人に2人、つまり50%というのは「相対的リスク」、それに対し100に対する6と4の差、つまり2%というのは「絶対的リスク」)
●統計数字は、母体数がどれだけかを確認し、%表示であれば実数に、実数表示であれば%表示に置き換える頭を持つ
最近ふと思った。
「成功する上で欠かせない資質があるとすれば、それは真剣さと素直さではないか」
今までの22年間で、様々な経験をしてきた。
学校の勉強(英語、数学、国語、理科、社会、体育、家庭科etc…)、スポーツ(サッカー、バスケ、バレーetc…)、読書、旅行、友達と遊ぶ、ゲームで遊ぶ、高校受験、大学受験、就職活動、小学校の大半をアメリカで過ごす、学級委員をやる、アルバイト、家庭教師、ブログ(これは最近)・・・挙げていけばきりがない。
振り返ってみると、「真剣に」取り組んできたものは、すべてが活きている。
「あの時あれをやった」「あの時こうした」「あの時こうすると決断した」
全てが一本の線となってつながり、今の自分になっている。
全てが役に立っている。
逆に、今まであまり真剣に取り組んでこなかったものは、ほぼ全てが役に立っていない。
勉強にしてもスポーツにしても遊びにしても、私は昔から「なぜやるのか」「何が得られるのか」「どうすれば得られるか」を常に考えながら取り組んでいたと思う。
最終的に意味を見出せなかったものは、自分には必要ないと判断した時点で、周りがどう言おうと全て排除してきた。
そして、自分なりに「意味」を見出し、大切だと感じ、自分の嗜好性に合うものに関しては、自分の意思で真剣に取り組んできた。
結局、今活きているなと感じるのは意味を見出して積極的に取り組んできたものだけであり、中途半端に終わったものは、たとえ「それ自体」が非常に意義のあるものでも、今私の中で活きているとは思わないし、今後も活きないと思う。
しかし、これは「今だからこそ」言えることだ。
振り返ってみるからこそ、全てがつながって見える。
だが、当事は何が役立つのか、そして何が役に立たないのかなんていう確証はなかったし、周りが考えを異にする中で自分の考えを貫き、何かを排除するのは非常に勇気が必要で、正直怖かった。
しかし、今振り返ってみると全てが最高の決断であったと思える。
だから、「勉強は役に立たない」だとか「そんなものやっても無駄だ」などと、自分がたいして真剣に取り組んでこなかったにも関わらず、そんな短絡的な「嘘」を世の中に撒き散らすようなことはやめてもらいたい。
また、自分の価値観を押し付けて「これをやれば間違いない」「これをやらないと失敗する」という「嘘」の安全な道を子どもに教えるのもよしたほうがいいと思う。
世の中に「とりあえずやっておけば成功する」ものなんて何一つないと私は思う(自分自身の価値観ではなく、誰かの価値観に基づいた幸せを手に入れることが成功ならば話は別だが)。
大切なのは自分の声を聴き、今やっていることが必ず未来につながるのだと言う信念を持ち、真剣に取り組むことだ。
それらは全て後に活きると、私は信じている。
ただ、「信念を貫く」という部分には注意が必要だ。
何も周りの言うことに耳を傾けず、ひたすら頑固に行動しろと言うわけではないし、それではほぼ確実に失敗するだろう。
ここで出てくるのがもう一つの大切な資質である、賢明な人の声に耳を傾ける姿勢、「素直さ」だ。
周りの人たちは、自分が魅力的であればあるほど様々な「援助」「情報」「チャンス」を運んできてくれる。
それらを遮断するのは得策ではないし、逆にそれらに振り回されて「あの人が言うから」「みんながそうしてるからそのほうが安心だ」なんていう理由で流されるのもダメだ。
大切なのはそれらを吟味し、自分にとって何が重要かを考えた上で、答を出すことだ。
考えた上でやはり自分の元々の考えを貫こうと思えばそうすればいいし、相手の意見のほうが正しいと思えばそちらを選べばいい。
それが自分の信念なのだから。
22歳、まだまだ先は長い。
これからも、真剣に取り組んだものは全て未来につながると信じて、自分のビジョンを追い続けようと思う。