五木寛之さんの『人間の運命』を読みました。人生にあらかじめ決められたコースなどない。自分の道は自分で切り拓くものであって、自分次第で何にでもなれるし、何だってできる。私はなんとなく自分にそう言い聞かせて、今まで過ごしてきました。自分自身に対してはそういう考えでいいと思いますが、他者にもその考えを当てはめてしまうと、必ずしもそれが正しいわけではない場合もあるのではないかということを、最近改めて考えます。
私たちは、自分の努力や向上心をもっているだけで人生を切り開いていけるものではない。私たちは与えられた体型、与えられた肌色、与えられた才能、与えられた民族、与えられた両親と与えられた兄弟をもっている。それらは自分が選んだのではなく、与えられたものとして生まれてくる。そしてその社会のなかで生きていく。
確かに振り返ってみると、私は両親にも恵まれ、小学生の時にアメリカで暮らすという幸運を受け、好きな高校・大学に生かせてもらえるだけの経済力が実家にあり、自身のわがままで1年間就職を見送った際にもそれを許してもらえる環境がありました。他にも挙げていけばきりがないのでしょうが、私が自分自身の努力や向上心によって獲得したわけではなく、たまたま与えられていたものから多大な影響や恩威を受けていることは事実です。
「確かに世の中には、どの国で生まれ、どの両親の元で育つかといったように、自分で選べないものもある。しかし、そこからどのような影響を受け、どんな選択をするかを選ぶ権利は自分にあるはずだ」という意見もあるでしょう。そして結局は自分の選択と行動の結果なのだと、全てを自己責任として片付けることも出来ます。しかし、その選択や行動でさえも、やはり生まれながらに背負っているものから多大な影響を受けていることは否めません。
「宿業」とは、その人間をとりまく過去の状況と行動のことだ。「運命」を決定づける、その根本のもののひとつが、この「宿業」であるということができるかもしれない。
その時代、その国に生まれた、ということが自分にその行為をさせたとしたら、いや生きるためにそうせざるをえなかったとしたら。その事実の重さをつくづく考えずにはいられない。
「人間は状況次第でどんな風にもなるものだ」
例えば戦国時代に生まれたとして、自分は決して人を殺めることはしなかったはずだと言い切ることができるでしょうか?同じように自己責任だとして片付けようとしているあの人も、もし自分がその人と同じような境遇に生まれ、育っていたら、同じ道を歩むことにならなかったと言い切ることができるのでしょうか?その人の意志やがんばり、努力や向上心に関係なく、その人を取り巻く状況や環境がその人の道を決めてしまう部分は多いのではないかと思います。むしろその人がどのような意志や、向上心を持つのかも、その人を取り巻く状況や環境によってかなり左右されてしまうのではないでしょうか。
「人の行為を、その人の心が善いからとか、悪いからとか、簡単にきめてはいけない。人間の善悪などというものは、なかなかわからないものなのだ。いや、世間の善悪の考え方は、そもそもまちがっている。人間の行為というものは、すべて宿業によるもので、自分勝手にできるものではない。この世におこるできごとの、チリの一つまで前世の宿業によらないものはないのだ。そのことをよく考えなさい」
※注:ここでいう「前世」とは「過去」のことです。
私たちは一人ひとりが、自分の選択や行動を左右する大きな荷物を背負って生まれていて、人によってはそれがとても重たくのしかかってしまうのでしょう。だから、弱い立場にいる人を自己責任で片付けてしまうのは、やはり何かおかしい気がします。とはいえ、悪いことばかりではありません。
私たちは宿業をせおわされているだけではなく、未業を目の前にしている存在なのである。たとえば、私たちの祖先の業=行為が、いわれなき不当な差別の制度をつくった。しかしそれを宿業として意識的にせおうことは、明日の差別なき世界をめざすバネとなるはずだ。そう考えれば、宿業という言葉に、暗い運命的なものだけを感じないで向き合えるのかもしれない。
その光がさしたからといって、せおっている荷物が軽くなるわけではない。目的地までの距離がちぢまるわけでもない。だが、しかし、人は闇を照らす光によって立ち上がり、長い道筋を重い荷物をせおって歩く力がわいてくる。
長くなりましたが、自分の置かれた(過去に置かれていた)状況や環境を言い訳にするようなことはしたくありませんが、他者に対しては自己責任だと決め付けず、もっと寛容な態度で理解しようとする姿勢を持つことが必要だなというのが、今の結論です。