夜と霧 新版 | |
池田 香代子
みすず書房 2002-11-06 おすすめ平均 |
ヴィクトール・E・フランクルの『夜と霧』を読みました。
心の持ちようや考え方しだいで、自分の状況を変えることは出来る、と言ってもありきたりで陳腐に聞こえるかもしれません。
しかしそれが第二次世界大戦中のアウシュヴィッツ強制収容所でのことだとしたら、どうでしょう。
ほとんどの被収容者は、風前の灯火のような命を長らえさせるという一点に神経を集中せざるをえなかった。原始的な本能は、この至上の関心事に役立たないすべてのことをどうでもよくしてしまった。
収容所に入れられ、なにかをして自己実現する道を断たれるという、思いつくかぎりでもっとも悲惨な状況、できるのはただこの耐えがたい苦痛に耐えることしかない状況にあっても、人は内に秘めた愛する人のまなざしや愛する人の面影を精神力で呼び出すことにより、満たされることができるのだ。
人間の魂は結局、環境によっていやおうなく規定される、たとえば強制収容所の心理学なら、収容所生活が特異な社会環境として人間の行動を強制的な型にはめる
それがたったひとりだったとしても、人間の内面は外的な運命より強靭なのだということを証明してあまりある。
いざ偉大な運命の前に立たされ、決断を迫られ、内面の力だけで運命に立ち向かわされると、かつてたわむれに思い描いたことなどすっかり忘れて、諦めてしまう……。
強制収容所における被収容者は「無期限の暫定的存在」と定義される
(中略)
(暫定的な)ありようがいつ終わるか見通しのつかない人間は、目的をもって生きることができない。ふつうのありようの人間のように、未来をみすえて存在することができないのだ。
勇気と希望、あるいはその喪失といった情調と、肉体の免疫性のあいだに、どのような関係がひそんでいるのかを知る者は、希望と勇気を一瞬にして失うことがどれほど致命的かということも熟知している。仲間Fは、待ちに待った解放の時が訪れなかったことにひどく落胆し、すでに潜伏していた発疹チフスにたいする抵抗力が急速に低下したあげくに命を落としたのだ。未来を信じる気持ちや未来に向けられた意志は萎え、そのため、身体は病に屈した。
生きる目的を見出せず、生きる内実を失い、生きていてもなにもならないと考え、自分が存在することの意味をなくすとともに、がんばり抜く意味も見失った人は痛ましいかぎりだった。
自分を待っている仕事や愛する人間にたいする責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。まさに、自分が「なぜ」存在するかを知っているので、ほとんどあらゆる「どのように」にも耐えられるのだ。
当初は自由を夢見て、生き延びようと必死になっていた人も、過酷な環境のなかで仲間はどんどん病死・餓死していき、いつ釈放されるのか、もはや釈放されることがあるのかどうかすらわからない。
未来の見えない真っ暗な状況に自分が置かれていることに気が付くと、次第に生きることへの執着心を失っていきます。
物理的に拘束されているわけではありませんが、現代社会にも人を型にはめようという性質はありますし、未来が見えない状況に陥る人もたくさんいます。
欝など、職場での精神的な病気も問題になっています。
しかし本書は、この世の生き地獄とも呼べるような環境の中にあってさえ、その困難に打ち克つほど、人の精神というものは尊く気高いものなのだということを教えてくれます。
未来の見通しが全く見えない、このまま死ぬまで収容され続けるのではないかという状況にあっても、生きる意味・生きる目的・生きることへの情熱を見失わないほど、人の心は強くなれるのです。
私たち人間の魂は環境をも超越するのですから、運命にでさえ抗うことができるはずなのです。
しかも私たちには収容所のように、物理的に私たちを拘束するものはありません、どんな困難だって乗り越えられるはずなのです。
人間の持つ強さを忘れそうになったとき、思い出したいときや、自分への自信を失いそうになったときに、是非読んでもらいたい一冊です。
夜と霧 新版 | |
池田 香代子
みすず書房 2002-11-06 おすすめ平均 |