茂木健一郎さんの著書、「思考の補助線」を読んだ。
世の中の様々な現象や問題について脳科学という切り口から発せられる著者の主張は、これまであまり科学に関わりを持たなかった私にとって初めは非常に難解に思えた。
結局何が言いたいのかが分からず、途中で読むのをやめようかとも思ったが、それでも読み続けていくうちに徐々に理解が進み、多くの知的刺激を受けることが出来た。
まだその全てを理解できたわけではないが、ここでは特に私が興味を持ったテーマについて書き記しておこうと思う。
①「個性」を支えるパラドックス
日本の教育を議論するに当たって、「これからは個性が大事である」という主張を何度か聞いたことがある。
その一方で、学校の運動会や合唱祭で順位をあえてつけないなんていう事態を私も経験したことがあったし、小学校の徒競走で生徒が横一列に並んで手をつないでゴールするなんていう話を聞いたこともある。
無用の競争を避けるためにも、全体の調和を重んじようという日本人の考え方がそこに見て取れる。
また、事例を民主主義に置き換えれば、金持ちからもっともっと税金を徴収し、経済的弱者のため、社会福祉のために使うべきだという主張を聞いたこともある。
しかし、競争を排除し、個性を埋没させることが真に尊いことだとは私には到底思えない。個人の能力が正当に評価されない環境で、果たしてモチベーションは発揮されるのか。社会貢献それ自体は大変尊いことだとは思うが、個人が努力の末獲得した報酬をいわゆる「弱者」に分配することは、ただ単に努力を怠った人たちをさらに怠惰にさせるだけではないのか。
個性を埋没させ、全体の調和を重んじる社会からは「創造する力」が奪われる。
さて個性について著者は、以下のようなパラドックスを見出している。
「個性が社会全体の調和と相容れないというのは粗雑な議論であり、むしろ個性は他者とのコミュニケーションがあってこそ始めて磨かれる。
しかし同時に、ちょっと変わったことをするとからかわれるといった具合に、自分と異なる見かけや振る舞いを排除しようとする、「お互いを同質化する契機」を他者とのコミュニケーションは含んでいる。」
自分と違うものを尊重し、評価する精神に富んだ社会でこそ、個性は育てられるのだろう。
②「みんないい」という覚悟
女権拡張の一環としてMrs.とMiss.の区別を排除し、Ms.で統一するという話を聞いたとき、そもそも未婚か既婚かに上下の差などないはずなのに、なぜ取り立ててこのような議論が起こる必要があるのか当時私は疑問に思っていた。
これについても著者は面白い視座を与えてくれた。
「みんなちがって、みんないい」という考え方に共感する人は多いが、この考えを肯定するべく生まれた考え方が、本音ではこれを否定するという矛盾を生んでいるというのである。
上記の例で言えば、既婚者と未婚者を平等に扱うために呼び方を統一するという行為は、本音ではどちらかをより尊いと考えており、それゆえ下の立場にあるものを思いやるがためにわざわざ統一している一面を含んでいる。
本当に「みんなちがって、みんないい」という精神を持ち合わせているならば、わざわざ未婚、既婚の差異を埋める必要はないのかもしれない。
思考の補助線 (ちくま新書) | |
茂木 健一郎
筑摩書房 2008-02 おすすめ平均 |