茂木健一郎さんの著書、「ひらめき脳」を読んだ。
詰め込み教育により現代の子供たちから想像力が奪われているという指摘があるが、「新しい価値」を生み出し社会に広める上で、「ひらめき」はまさに欠かせないものだと思う。
本書を読む前から、私は「ひらめき」に対する自分なりの解釈があった。
「ひらめき」はひたすら力んで苦しい思いをしながら考えても生まれてくるものではない。
必要な情報を頭にインプットしてリラックスしておけば、後は頭が勝手に計算して、あるとき突然「Aha!」となる。
逆に言うと、必要な情報が頭にインプットされていない状況からは「ひらめき」が生まれることはない。
つまり、無からは何も生まれない。
ひらめきを生むために必要なこと、それは必要な情報を頭にインプットすること、そして、ひらめきやすい脳の状態(リラックスしたり、何か面白いことを考えている状態)を保つことである。
これに対し、以下が著者の研究結果である。
次に多い誤解は、ひらめくためには、考えることを脳に強制し無理やり何かひねり出す必要があるのではないかというものです。
脳は、どんな時にも常に自発的に活動しています。
ひらめきやすい環境というのは、外部からどういったインスピレーションが与えられるかではなく、いかに自分の脳がリラックスできるかということが大事なのです。
ひらめきを生むためには、記憶を司る側頭葉に、ある程度準備ができていないといけません。
その準備とは「学習」のことです。
ひらめくためには、それだけのマテリアルを側頭葉に入れ込んでおかないといけません。
記憶というのは、覚えたことをただ再現するのではなく、編集されていく。
この編集する力こそが、ひらめきを生む原動力にもつながるのです。
驚くほど、私の解釈と脳科学的に解析した著者の答えは同じだった。
しかし、やはり科学的に追求した著者の根拠は深いもので、それが直感的、実体験ベースの私の考えをさらに強固にしてくれると共に、今後更に豊かなひらめき人生を続けるための数々の貴重なヒントを与えてくれた。
さて、著者は「ひらめき」は訓練することで強化することができるとしている。
しかし同時にそれは、学校教育では実現しにくいとも述べている。
決められた時間内で行う教育では、いつひらめくかわからないものを待つ「非効率なスロー・ラーニング」はできにくく、そういうものを切り捨てることで「詰め込み教育」は成り立っている。
私は高校生のとき数学が好きになれず、答えの解き方を覚えることに違和感を感じた。
そもそも数学とは何のためにあるのか、答えの導き方を「暗記」することに何の意味があるのかと考えた時期があった。
そのときの私の答えは、「数学とは論理的思考を養うためにあるもの、だから答えを見て覚えるのは、テストではいい点が取れるかもしれないが、本質的ではない。大事なのは自分が持っている知識を論理的に組み合わせ、答えのわからない問題に自分なりの解を導く訓練をすることだ。」というものだった。
その日から私の数学の勉強スタイルが変わった。
わからない問題があると答えを見るのではなく、わかるまで2日でも3日でも考えるようになった。
うまく解を導けないときは、論理展開に欠陥があったり、必要な情報を見逃していたりと何かしら理由があるはずで、それを自分で発見し解決していく訓練をしたのだ。
どこに不備があるのかもわからない問題をひたすら考えるのは苦しかったが、あるとき「Aha!」とひらめいたときの快感は数学が好きになるのに十分だった。
今振り返ると、この訓練は「ひらめき」を鍛える上でとても効果的なものだったのかもしれない。
自分の直感、心の声を信じて進むことはやはり大切だと思う。
時に本質をたくみに突いているのだから。
Follow your heart.
ひらめき脳 (新潮新書) | |
茂木 健一郎
新潮社 2006-04-15 おすすめ平均 |