自由からの逃走 新版 | |
エーリッヒ・フロム
東京創元社 1965-12 おすすめ平均 |
エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走 新版』を読みました。
本書は「自由」と「安定」の心理的トレードオフの関係について分析した、大変読み応えのある一冊です。
是非一度、自分自身に聞いてみて欲しいのですが、身分制度や宗教制度といった過去に存在した我々を束縛する外的要因から解放された今、私たちは本当に自由になれているのでしょうか?
それとも自由でいることに耐えられず、安定を求めて何かに依存してしまっているでしょうか?
自由は近代人に独立と合理生徒をあたえたが、一方個人を孤独におとしいれ、そのため個人を不安な無力なものにした。その孤独はたえがたいものである。かれは自由の重荷からのがれて新しい依存と従属を求めるか、あるいは人間の独自性と個性とにもとづいた積極的な自由の完全な実現に進むかの二者択一に迫られる。
人間は外界の位置構成部分であるかぎり、個人の行動の可能性や責任を知らなくても、外界を恐れる必要はない。人間は個人となると、独りで、外界のすべての恐ろしい圧倒的な面に抵抗するのである。
ここに、個性をなげすてて外界に完全に没入し、孤独と無力の感情を克服しようとする衝動が生まれる。
人間がみずからの良心のままに信仰を求めることを許さなかった教会や国家の権力に対する勝利ではあるが、一方近代人は、自然科学の方法によって証明されないものを信ずるという内面的な能力を、いちじるしく失ったことは、十分に理解されていない。
言論の自由はたしかに古い束縛にたいする戦いにおいて、重要な勝利ではあるが、近代人は、「自分」が考え話している大部分が、他のだれもが考えはなしているような状態にあることを忘れている。
われわれは、人間がかれになにをすべきで、なにをなすべきでないかを教えるような、外的権威から解放されて、自由に行動できるようになったことを誇りに思っている。しかしわれわれは世論とか「常識」など、匿名の権威というものの役割を見落としている。われわれは他人の期待に一致するように、深い注意を払っており、その期待にはずれることを非常に恐れているので、世論や常識の力はきわめて強力となるのである。
自我と人生とを信ずることができるような、新しい自由を獲得しなければならないことを忘れている。
自由でいることの責任や重荷に耐えられず、不安を解消して安定を与えてくれそうなものがあるならば、たとえ自分自身であること=アイデンティティを捨ててでも、それに同化しようとしてしまう。
宗教団体や、少し前に流行った(今も?)スピリチュアル的なテレビ番組にはまってしまう人の心理は、もしかしたらこういうところに原因があるのかもしれません。
もっと身近な例で言えば、空気読めない=KYというのも、自分の意見を押し殺して周囲の意見と同化してしまう構造が、まさに「自分自身でいる自由からの逃走」ですよね。
でもそういう人は、結局不安から逃れることはできないのだなと、本書を読んで思いました。
どれだけ外部と同化しようとしても、外部と完全に一致することなど不可能なのです。
後に残るのは「自己の喪失」という大きすぎる代償で、そうなると自分を認めてもらいたいという承認欲求から、富を求めたり、地位を求めたり、ステータスを求めたりしはじめ、そういったものに自分の同一性を見出そうとします。
しかし、それをどれだけ繰り返したところで、本当に心から満たされることは、ないのです。
かれは匿名の権威に協調し、自分のものでない自己をとりいれる。このようなことをすればするほど、かれは無力を感じ、ますます同調するように強いられる。(中略)近代人は深い無力感に打ちひしがれている。
人間や自然にたいする自発的な関係である。それは個性を放棄することなしに、個人を世界に結びつける関係である。この種の関係―そのもっともはっきりしたあらわれは、愛情と生産的な仕事である―は全人格の統一と力強さにもとづいている。それゆえそれは自我がどこまで成長するかの限界によって左右されるだけである。
やはり、自分を貫かないかぎり、私たちは真の意味で満たされることはないのです。
個性を放棄することなしに、個人を世界に結びつける。
世界と結びつくために、常識や世論といった外部の価値観を自分にインストールするのではなく、自分自身であり続けながら世界と結びついて共存していくための道を探す。
このような「積極的な自由への姿勢」が、私たちが本当の意味で幸せになるためには必要なのではないかと思いました。
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