遺伝子操作によって親が子供の知能や運動能力を意図的に高めることは認められるべきだと思いますか?もし何らかの理由で認めるべきではないというのであれば、視力の障害や身長が伸びないなどの病気から回復するために使う場合はどうでしょうか?本書は遺伝子操作とエンハンスメントの是非についてマイケル・J・サンデル教授が考察を試みた一冊です。
読み物としては非常に面白いです。
ただ、かなりデリケートなテーマでもあるので、こちらでは自分の感じたことを慎重に述べるにとどめたいと思います。
遺伝学の画期的な発展は、希望と窮状の両方をわれわれにもたらしている。その希望とは、われわれを苛む多くの疾病の治療や予防が間もなく可能になるかもしれないことである。他方、その窮状とは、筋肉や記憶や気分の改善、子どもの性別や身長その他の遺伝的形質の選択、身体能力や認知能力の改良、「健康以上」の状態になることなど、遺伝学上の新たな知識がわれわれ人間の本性の操作を可能にするかもしれないことである。
病気から回復するために遺伝学を使うのは歓迎ですが、性別の選択や知力、身体能力といった本来選べないものを人間が選ぶためにというのであれば反対だと、なんとなく直感では思います。しかしそれは何故なのかと言われると非常に難しい。
一つには損得の勘定があるのかもしれません。病気の人が回復する分には、誰かが損をしてそのかわり誰かが得をするということはないと仮定します。しかし例えばある人の身長が遺伝子操作でいっそう高くなると、他の人の身長は相対的に低くなるという事態が発生します。そうすると自分も自分もという状態になり、勝者のいない成長ホルモンの軍拡競争になりかねません。
それはすべての人にとって共倒れであることを考えると、遺伝子操作などせずに自分が与えられたものを受け入れる方がかしこい選択のような気がします。もう一つは、性別や持って生まれる特徴については自分で選ぶことはできないということが、何でも自分の思った通りにコントロールしようとする支配的な考え方を牽制し、与えられたものに感謝して受け入れるという謙虚な姿勢に寄与している側面があるからなのかもしれません。
あるいは、卵子売買や精子売買のことを考えてもらいたい。人工授精の普及により、これから子どもを持つ予定の親は、自分の子どもに持ってもらいたい遺伝的形質を備えた配偶子(卵子・精子)を買い求めることも可能である。
子どもに対して自分の遺伝子よりも、他人の遺伝子を与えることを望む。これは何を意味するのでしょうか?私が真っ先に考えたのは、それを知った自分の親はどういう気持ちになるだろうかということです。それは親から授けられた遺伝子を否定することのように感じてしまいますし、結局は自分自身をも否定してしまっているのではないでしょうか。
両親や才能、性格など自分では選べないものがある中で、それでも与えられたものに感謝して、幸福でいられるかどうかを自身の思想や行動を通して自由に選択できる力強さや美しさも失われてしまうかもしれません。子どもに自分が望む遺伝的形質を与えることが、本当に人々の幸せにつながるのか、疑問がぬぐえませんでした。現実にはクローンのペットを販売する事例が本書で紹介されているように、遺伝学の発展はもうすぐ人の遺伝的形質を自由に選択できるところまできているのかもしれません。ワクワクする気持ちがある反面、それ以上に不安が大きいと感じています。
完全な人間を目指さなくてもよい理由-遺伝子操作とエンハンスメントの倫理- | |
マイケル・J・サンデル 林 芳紀
ナカニシヤ出版 2010-10-12 おすすめ平均 |